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敦賀発展のキーワードは、港、城、神宮
春一番か、季節風の強まる冬でも、今年の敦賀は、比較的穏やかな気候で、昨日もそんな一日だった。敦賀の発展の歴史を考えると、水運を利用できる琵琶湖と日本海側のへその部分とも言える地形の優位性にあるといえる。日本海側有数の港町として栄え、物資の中継、昆布の加工など港を中心とした町であることは確かだ。それも千年以上の歴史を持つことから半端ではない。

三方を山に囲まれた天然の良港であり、渤海使の為に松原客館が置かれ、鎌倉時代はやや衰退したものの、戦国時代には朝倉氏の保護を受け、更に安土桃山時代には全国的に海運が盛んになったことから再び隆盛。豪商も生まれた。

江戸時代初期には北陸地方などからの米等を運んできた船が多く入港したが西廻り航路の開発により一時的に停滞するが替わって北海道のニシン、昆布等が活気をもたらした。1882年の鉄道開通は港に更なる繁栄をもたらし、北前船の船主であった大和田荘七の出現によって、新たな発展を迎えた。

1899年に開港場に指定され1902年にはウラジオストクとの間に定期航路の開設。1907年に第一種重要港湾に指定され敦賀郵便局が外国郵便交換局に指定されたことから日本からの国際郵便の大半が敦賀港を経由することになった。1912年にはウラジオストク航路に接続する国際列車が新橋駅と金ヶ崎駅との間に走りだしたことに、発展は頂点を迎えた。

1918年にはロシアの作曲家プロコフィエフが米への亡命途上、敦賀港に上陸、1940年8月から翌1941年6月までの間、リトアニア領事代理杉原千畝の発給した「命のビザ」によって、多くのユダヤ人難民がシベリア鉄道からウラジオストク経由で敦賀へ上陸。最近では、敦賀港を「人道の港」と呼ぶことも、港とともに生きた敦賀の歴史を語る上で、的を得た言葉だ。

戦後は、1951年に港湾法による重要港湾に指定され、1957年にはソ連との貿易も復活。町にロシア語の看板が出始めたのもこのころとか。1970年に北海道航路が開設されて大型フェリー「すずらん丸」が就航。

さらに、近年は、敦賀新港の開発が敦賀の更なる発展のキーでもある。新日本海フェリー敦賀フェリーターミナルへの移設、加えて、「多目的国際ターミナル」の建設が進められている。完成すると水深14mで5万トン級の大型船舶が接岸できる。

こうしてみていると、敦賀の発展の歴史は、最大のキーワードは、港を語らずして語ることはできないといっても過言ではない。これに、陸上の街づくりの基盤は、笙ノ川の治水に成功した大谷吉継の敦賀城築城にありとも私は考えている。

精神的な敦賀発展の基礎は、気比神宮にありともいえる。敦賀のまちづくり百年の大計を考える視点で、この三つを忘れてはいけない。その大きな流れで、現在のまちづくりを考えると、何か重要なことを忘れているといってもいいのではないか。


【2008/03/01】 | ページトップ↑
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