FC2ブログ
いま求められるのは、言葉の重みや信念を感じさせる政治家であることは確かだ。
Date:2010-11-29(Mon)

防火水槽と防空壕、私には懐かしい記憶しかない。昭和30年代後半、わが家を含め近所には家ごとに防火水槽と防空壕が残っていた終戦から15年以上たった時代であり、それも家の建て替えでなくなりつつあった時代だ。もちろん空襲からわが家と家族を守るという本来の目的はとうに失われていた。水槽は邪魔な存在。防空壕も野菜の貯蔵庫や地下倉庫などとして使っていたように記憶する。

わが家の防火水槽は、コイと亀の池に変身。亀は毎年、晩秋のこの時期に水槽から出してやると何処となくいなくなり冬眠、春になると現れ水槽に戻してやる。この循環が10年ほど続いた。防空壕も、裏庭にぽっかり口を開けた大きな空間は子供の遊び心を刺激する格好の遊び場だった。かくれんぼの隠れ場所だったり、肝試しのルートだったり。水槽と防空壕が戦争の名残ということを知ったのは物心ついてからだったと思う。

北朝鮮から砲撃を受けたとき、不謹慎かもしれないが、懐かしさ覚えた言葉が「防空壕」だ。それだけ日本が平和だということか。

戦争体験で思い出されるのは、「野中広務」という政治家だ。昨年か、今年はじめ、敦賀観光ホテルでの講演を久しぶりに聞いて感動した一人だ。「戦場へ子ども送ってならない」と言う言葉に重みと凄味があった。どう表現したらよいのか、特殊な環境で育った彼が、町議、府議から57歳という年齢で国会議員、あっという間に自民党の権力の幹事長まで登りつめた。

魚住昭さんが書いた「野中広務、差別と権力」(講談社)が、その人となりを説明している。田中角栄以後の政局がよくわかる。野中広務が小沢一朗と、どう張り合ったか、そして野中自身が、いかに日本の政局で主導権を握り、失脚して権力を小泉に渡す。その後の日本の変容を彼の語りは、予感通りだった。先日もテレビで民主党政権を批判したが、その毒舌と凄味はいまも変わらない。

細川内閣が崩壊した1994年(平成6年)6月30日、自社さ連立の村山内閣が誕生した。そのとき、私は東京にいた。その驚きと村山内閣の不思議さが、いまでも残っている。社会党の総理大臣が所信表明演説で、「日米安保堅持」「自衛隊合憲」「日の丸・君が代容認」を打ち出した。

一方で、村山内閣は、95年6月の「不戦決議」や8月15日の「総理談話」で過去の植民地支配と侵略に対する反省とおわびを明記したこと、「被爆者援護法の制定」「水俣病患者の救済」だ。こうした自民党が一番いやがることを実現した村山首相も偉かったが、その裏では野中さんがいたからだというのが通説だ。

観光ホテルでもそうだったが、いまも一貫して、自らの被差別体験を語り、「差別のない社会の実現」を切々と訴えている。そしてまた、自らの戦争体験を語り、平和の貴さを口にする。しばしば沖縄に言及し、現地に足を運び、戦争の非人間性をしみじみと訴えるさまは、経験者しかわからない重みと凄味だ。

これまた、一方で、野中さんは力をもった時期、小渕内閣の官房長官時代。「影の総理」と呼ばれて権力の中枢にあった1998年からその翌年にかけて、防衛ガイドライン関連三法案を通している。周辺有事の際に米軍の軍事行動に官民挙げて協力するという、これまでの日本の防衛政策の枠組みを変える重要な法案であった。さらに、国歌・国旗法案、盗聴法案、住民基本台帳法案など、国民の基本的人権を制限する法案が次々と通している。それまでの自民政治でできなかった法案を通し、それも右も右にに舵を切っている。

韓国の報道を見ると、砲撃から多くの住民を救ったのは避難した防空壕だった。防空壕がいまだに本来の目的で機能している隣国の険しい日常に接すると、危機管理も重要だが、その体験を平和な遊び場することと、ずっと要らないままにする政治も大事だ。

現在、不思議なことに総理にしたい候補者のナンバーワンが小沢一郎、その小沢さんと相対してきた野中さん。それぞれの評価は別として、「戦争に子どもを送ってはいけない」と、いま求められるのは、言葉の重みや信念を感じさせる政治家であることは確かだ。地方政治でも変わらない。
スポンサーサイト



【2010/11/29】 | ページトップ↑
| ひとことトップ |