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70年代と2010年代の原子力発電の違い
Date:2011-06-16(Thr)

「いつか君といった 映画がまたくる授業を抜け出して 二人で出かけた♫…、
大学4年頃か、フォークソングで「『いちご白書』をもう一度」が流行った。作詞・作曲はユーミンこと荒井由実(現・松任谷由実)。卒業を間近にして、過ぎ去った学生時代を思い出すという内容の曲である。『いちご白書』とは、1970年に公開されたアメリカ映画のこと。米国の学生運動を舞台にしている。

1970年代は、私が高校、大学、そして就職と人生の方向性決めた年代でもある。曲を聴くと当時の空気がよみがえる。72年の札幌冬季五輪があったものの、学生紛争が多発し、浅間山荘事件、連合赤軍の大量リンチ事件もあった。

一方で、大阪万博、沖縄返還、田中角栄内閣の誕生、列島改造ブームへと大きなうねりが続く。社会全体が騒然とし、元気な時代だった。転換期の熱気の中で、70年に敦賀1号機の営業運転開始、71年に福島第一発電所1号機の運転開始と続く。

74年9月1日、原子力船むつは、日本初の原子動力船として、青森県沖の太平洋上で行われた初の原子力航行試験中に放射線漏れ。陸奥湾に浮かぶ紫の船体が朝靄のなかで漂っていた。

事故後、母港である陸奥大湊港への帰港を反対され、16年に渡り日本の港をさまよい改修、4度の実験航海後、原子炉部分は解体された。これ以降、日本は原子力動力船の計画は今日までない。

むつ事故以降、原子力発電の反対運動はこの頃から過激になってきた。脱原発よりもこの頃は、反原発だった。79年、敦賀2号機の公開ヒアリングが市民文化センターで行われバリケードの中の騒然したものだった。原子力発電は、まさに「YESかNO」で時代が進んだ。

あれから32年が過ぎ、原子力発電所が54基になり、福島の事故が発生した。2010年代がどうなるか想像もできないが、小浜市議会の「脱原発」の意見書の全会一致、坂井市長の脱原発発言、橋下大阪府知事の脱原発発言など、70年代とは違った反対ではなく「脱原発」路線的な世論が強くなっている。

ここで、イタリアの国民投票に目を向けると、チェルノブイリ事故後、国民投票で脱原発を選択し、4基の原発を停止し、現在、電力需要の15%を輸入に頼るうえ、総発電量の8割以上を占める火力発電の燃料の高騰で、産業用電気料金はフランスの約2倍になった。隣接諸国と結ぶ送電線の事故で大停電も経験した。

イタリアでは過去10年間、先進国では例外的に、1人当たりの国内総生産(GDP)も労働生産性も低下した。財政赤字は膨らみ、経済は低迷している。この中で再び脱原発を選択した。

日本に戻すと、経済の低迷に加え、少子高齢化、人口減少とイタリアとは違った島国の中にある。原発の運転開始が認められない以上、電力会社は計画停電を避けるために急場として、節電要請と火力発電所の再開や運転、さらにはガスタービンによる発電と急ぐ。

将来、太陽光、風力など自然エネルギーが増えたとしても、安易な脱原発路線が続くとしたら、火力発電主流で停電のない島国である限り、高い電気料金となることは必定でもある。電気は産業の基盤でもあり、いま、電気のない生活は考えられない。私にはどう活力を見出すのか、市民生活の安定を考えると空恐ろしくなる。

ここは、安全性を高めながら安全最優先に、原子力発電を利用し、3割なら3割である一定程度、維持することが現実的でもあることは確かだ。ここは、敦賀も踏ん張りどころだ。


反原発から、今ある原子力発電を認めながらの「脱原発」とも私は受け止めている。ことエネルギーに関しては、市民生活そのものに影響するだけに「Yes or No」ではない現実の原子力発電をどう利用し、新設をどうするか、真剣な議論が必要な時代であることは確かだ。


いちご白書の歌詞の一節に「雨に破れかけた 街角のポスターに過ぎ去った昔が 鮮やかによみがえる♫…」と、私が大学に入った頃、大学紛争で疲れた留年組が残っていたが、卒業することもなく大学を去った。反対、賛成の
空虚な議論はなにも生み出されない…
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