何かを成し遂げた偉人の話を伺ったり、足跡を調べるのは、人生の励みや糧になる。
Date:2016-02-01(Mon)

昨日は新年会もなく、午前中は映画、昼は海洋少年団の敦賀で開かれる中部大会の打ち合わせ、夕方はプールでひと泳ぎ、夜は気ままにーーと、ゆっくりほんを本を読んだりと過ごすことができた。

趣味の世界でもないが、何かを成し遂げた偉人の話を伺ったり、足跡を調べるのは、人生の励みや糧になる。例えば、坂本龍馬を調べると、足跡はもちろん、手紙など多く残されており、趣味の世界としては本から旅から全国に龍馬の会もあり、仲間づくりなり、老後の生き甲斐になっている方もいる。

そのひとつとして、昨日、テレビで観たが柔道でオリンピック3連覇を果たした野村忠宏さんが福井市で講演し、「なにか1つ、熱くなるものをもってチャレンジし続けてほしい」と、活躍したかたの言葉は、どこかに訴える力があり若い人に与える影響は大きい。

このなかで野村さんは、シドニーオリンピックの後、2年間、柔道を離れ、再びアテネに向けて試合に臨み始めた時期を振り返り、「復帰戦に挑んだ時は立て続けに負け、畳に上がって相手と向き合うことが怖くなり、本気で柔道を辞めたいと思った」と述べた。別の番組で、野村さんは「「「私の体は柔道をやめた今ではガタガタで日常生活でも痛みが出るほどだ。だけど得たものの大きさ変えられない」と語っていた。番組で背負い投げの入り方など具体的な指導も行っていたが、半世紀前に伺っていたらとも思うほど、納得の指導だ。

もうひとつは、やはり命のビザ”を発給した外交官、杉原千畝さんだ。映画にもなったが、生家の岐阜県八小津町、領事館のあったリトアニアのカウナスに行ったり、ウラジオストクへ行くなど、その足跡をたどって現場にたつと、違った世界も見えてくる。杉原さんを調べて15年にもなるが、これは趣味の世界としては、まだまだ緒についたばかりばかりと思っている。

なかでも、ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ難民が、特に数多く敦賀港に上陸したのは1940~41年にかけての冬。それから75年、福井県敦賀市内では当時の市民の温かな受け入れを示す新たな証言も丹念に集めている古江さんがいる。得られている。杉原千畝さんがなくなられて30年。5月にも関連資料が国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界記憶遺産に申請される見通しで、市も「人道の港・敦賀」の情報発信に一層力を入れる。

福井新聞でもその都度、取り上げられているが、「難民部隊続々。敦賀埠頭や敦賀駅頭は文字通りに国際風景を描き出している」―。太平洋戦争勃発を10カ月後に控えた41年2月15日。本紙は敦賀港に降り立つユダヤ難民をそう伝えた。10年ほど前にこの記事を読んで、まさに敦賀の歴史のひとこまがあるとも思った。

上陸は40年8月から41年6月にかけてで2月の報道の日は、「天草丸からはき出された難民は350名で、昨年秋から始めて記録破りの大部隊」だったと、3月8日付では「ユダヤ人の氾濫で敦賀駅案内が困惑警戒すべき内地への移動情勢」と大見出し。

そんな世情で市民は、長旅を経た難民にリンゴをあげたり銭湯を開放したりと、温かく迎え入れた。さらに、船上で流産によって子どもを失った夫妻が上陸後に受けた治療や、市民の好意に感激したという。その治療にあたった、この度のドイツ語をしゃべる産婦人科医の竹内さんなど、杉原千畝さんのエピソードは、敦賀にも数多くあり、小中学校の授業にも取り上げられほどの地域の歴史的遺産だ。
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