ウラジオストックつれづれ
Date :2017-09-09(Sat)

「人道の港 敦賀ムゼウム」のボランティアガイドをしていて必ず語るフレーズがある。「与謝野晶子が、パリにいる恋しい旦那の与謝野鉄幹に会うため、当時、一番の近道である敦賀からウラジオストック、そしてシベリア鉄道を通ってパリに向かいました」と。

恋い焦がれて敦賀ーウラジオストクのルートを選んだがどうかは定かではないが、ここ敦賀を通って、国際連盟を脱退するために当時の外務大臣松岡洋右もここ敦賀港からジュネーブに向かっている。

ここで書いて置かなければならない「命のビザ」の杉原千畝の物語。
1940年7月29日--9月5日。本省の訓令に背き職務規定違反。「私たちはどうなってもいいから、助けましょう」と、助けられたユダヤ難民、シベリア鉄道で2週間かけて極東のウラジオストックへ。1941年2月--6月 在ウラジオストック総領事代理・根井三郎は、独断でユダヤ難民の渡航を認める。杉原だけではなく、ウラジオストックにも人物はいた。

一昨日の日ロ首脳が会談したウラジオストクにはかつて6千人もの日本人が住んでいた。敦賀とのつながりもあって、福井県人会もあったとか。

敦賀との間の定期航路が定着。貿易の要衝となり、日本人街が形成され、とうぜん、福井県の人も多かったとか。

余談の説明でウラジオストクことを当時の敦賀の人は短縮して「浦潮(うらじお)」と言ったとも伝える。

私も三度ほど訪れているが、当時の日本企業が社屋に使った建物はいまも健在だ。100年前の1917年には邦字紙「浦潮日報」も創刊されている。

ウラジオストックに行って不思議な感覚になるのは、青い目の紳士、淑女に、
もちろんロシア人だが、東洋のそれも極東でヨーロッパ風の建物と白人、どこなく不思議な感覚になる。

日本にとって西洋への玄関口でもある。ただ、歴史を振り返ると、シベリア出兵、市の背景は、ロシア革命の波及を恐れた英仏が出兵を要請。権益拡張の思惑から各国の中でも最多の兵を送り込む。駐留は7年間に及び、最後は国際的な非難を浴びる。


撤兵後、拠点だったウラジオストクの在留邦人は激減。日本は第2次世界大戦へと突き進む。戦後は多くの日本兵が抑留され、その手で建てられた施設が大正時代の日本企業の建物とともに残る。

その地で今回、両首脳が交わした握手、日ロの歴史が交錯する港街が、再び交流の扉となる日は、来るだろうか。

長くなるが、20年前、ウラジオストックに訪れたとき、路上で品物を手にもって必死で売っていたアジアン人いた。聞くと朝鮮人とか。ひとりの老婆が片言の日本語で「私、朝鮮人、これ買って下さい」とのことばが耳に残っている。当時、建設現場に北朝鮮の労働者が働いていた。いまも変わらないとか。

ウラジオストックに行く前、定期航路の船によっては北朝鮮の港町チョンチンに寄港していた。戦前、チョンチンに店を出していた敦賀の人もいた。ソ連参戦でチョンチンに店も財産も放り投げて敦賀に戻っている方もいる。これも余談だが、拉致された地村夫妻が最初に連れて行かれた港がチョンチンだっとか。

北朝鮮問題、ミサイルと水爆、経済制裁、と新聞を賑わすが、歴史を振り返っても、どこか、忘れかけている人の歴史がある。

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