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原子力ユニオン50周年
昨日は、東京で日本原子力研究開発労働組合【原子力ユニオン】 の50周年記念行事に参加した。半世紀は、日本の原子力研究、原子炉研究の開発と重なる。敦賀の現場で苦労した懐かしい顔ぶれに多く出会えた。

説明が長くなって恐縮だが、日半世紀まえ、動力炉・核燃料開発事業団(以下、動燃)は、1967年10月2日に原子燃料公社を母体に発足した、これと同時に当時の動燃労組が設立した。

動燃は、高速増殖炉および新型転換炉の開発を専門とする事業団である。通称・略称は動燃である。

日本の原子力開発は欧米先進国に10年も遅れスタートした。その基本は原子力の平和利用を法律化した原子力基本法の1955年の成立にほかならない。日本の原子力開発の方針は先端技術へのキャッチアップが最優先課題であった。

具体的には日本原子力研究所(原研)の「JRR-1」「JRR-2」「JPDR」「3MeVおよび5MeV静電加速器」「20MeV線型加速器」など、特にアメリカの技術の導入に明け暮れた。

それでも原研は設立10年で異常な早さで欧米先進国の動力炉開発のレベルにキャッチアップした。1960年代後半には既に、高速増殖実験炉(後の「常陽」)と新型転換原型炉(後の「ふげん」)の概念設計を完了し、それらをいつでも建設できる技術力を持った。

当時も今もそうだが、エネルギー資源の乏しい日本は、発電しながら燃料を増やすことが出来る、高速増殖炉に着目した。

しかし、当時原子力開発を行っていた日本原子力研究所(原研)は組織が労働組合の問題で原子炉の試験運転など、難しい状況にあった。

そこで発足されたのが動燃であり、新型転換炉ふげんや高速増殖炉「もんじゅ」の開発など、最先端の原子炉開発に特化した集団となった。労働組合も新たに組織されたのが原子力ユニオンだ。


ただ、高速増殖原型炉「もんじゅ」のナトリウム漏洩事故(1995年12月8日)や、東海村再処理施設アスファルト固化処理施設の火災爆発事故(1997年3月11日)などのトラブルから動燃が、1998年に廃止され、核燃料サイクル開発機構として改組された。

その後、2005年10月に核燃料サイクル開発機構は原研と統合され、日本原子力研究開発機構となった。福島の事故もあり、まさに日本の原子力の研究や開発は、苦難の歴史といっても過言ではない。


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【2017/12/05】 | ページトップ↑
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