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清津港(北朝鮮)の光と影。
Date:2009-01-08(Thr)

昨夜、敦賀FMのHARBOR STATIONで、拉致の疑いの濃い山下貢さんのお母さんと共に、放送の打ち合わせを行った。

私も拉致問題に取り組むようになって十数年、敦賀での活動も、平成12年、横田めぐみさんのご両親をプラザ萬象に招へいの集会から始めた。活動を通して、いつもひっかかる港に北朝鮮の清津(ちょんじん)港がある。戦前、敦賀港と関係の深かった港だ。

小浜市の地村保志さん夫妻が、1978年7月7日の七夕の日、拉致されて着いた最初の北朝鮮の地が清津だ。蓮池さん夫妻ともども、清津の招待所で、朝鮮語や主体(チュチェ)思想を教えられたとも伝えられる地でもある。

古くは、1963年の能登のいわゆる寺越事件は、被害者の一人寺越武志さんが北朝鮮に拉致され、到着したのも清津だ。ちなみに、武志さんの今も北朝鮮の幹部として活動している。あたらしいところでは、1999年に発生した能登半島沖不審船事件では、漁船に偽装した2隻の船が最終的に清津港に入港したことが日本政府よって確認されている。拉致被害者の多くが、清津港を通っている可能性が強いと推定される。

現在でも、清津は、朝鮮北部の重要な港湾工業都市である。人口約五十万人と伝えられる。ここまで書きすすめたのも、ウラジオストック港と敦賀港の国際貿易の影に隠れて、戦前、敦賀と関係の深かったことが、頭にあるからだ。

1918年当時、「ウラジオ景気」に湧いた敦賀港も、ロシア革命とその後のシベリア出兵で景気の急速な冷込み、当時の敦賀港は、不振の外国貿易から植民地圏貿易、とりわけ対朝鮮貿易へと活路を見い出そうとした。その結果、1918年4月に敦賀・清津間に航路が開設され、朝鮮牛の移入もすすめられた。1929年にはその数も6800頭を数えたと伝えられる。

その後、1932年の「満州国」建設以後、朝鮮北部の清津・羅津・雄基は「満州」への新しい門戸として重要視され、これを機に、敦賀・新潟・伏木港など日本海側諸港は「日本海の湖水化」をスローガンにいっそうの発展を図った。これらに影響されてか、当時の敦賀人は、清津に店を出し繁盛したとも聞く。しかし、戦争終了間際、ソ連侵攻により、朝鮮で日本統治を最初に離れたのが清津だ。当時の敦賀人は、財産をそのままに、帰国し、敦賀に戻っている。

今、当時の繁栄の跡が敦賀市の縄間に、青いペンキの剥げた洋館がひっそりと建っている。旧獣類検疫所である。正式名称は、「旧農商務省獣類検疫所神戸支所敦賀出張所」。この大正ロマンを感じさせる建物の内部は、白漆喰で仕上げられており、当時の面影を探すのは難しいが、雰囲気だけは残っている。

縄間の浜に今も残る小さな桟橋から、牛たちは歩かされ、道の下の小さなトンネルを抜け、この検疫所に入った。以前は、この検疫所の後ろには牛舎が何棟も並んでいたが、今ではこの検疫所のみが、役目を終え、静かに、オートキャンプ場の事務所として余生を送っている。それも最近は、戸をとざしたまま、傷みもひどいと聞く。

拉致の疑いの濃い、山下貢さんも縄間の出身。そのお母さんも80歳を越え、今も縄間で、息子の帰りを待つ。清津と縄間、戦前の繁栄と拉致、光と影が投影されている。地勢学的にも清津港との関係は、いずれ平和な貿易港として復旧されることは十分考えられる。そんな関係ができることを祈るのみだ。



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