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「敦賀鉄道資料館」(敦賀港駅舎)のオープン
Date:2009-03-08(Sun)

敦賀の金ヶ崎の港周辺が整備されてきた。旧敦賀港駅舎に10日、「敦賀鉄道資料館」をオープンする。大和田別荘のムゼウムもそうだったが出来たものを見て、「小さい」「狭い」とか、「ちゃっちい」とか、「もっと立派なものに」とか、巷での声が聞こえるようになる。現状の中で工夫の結果だ。人気があり、金があれば、また大きくすればいい。私はそう思っている。

いずれにしても、明治からの鉄道の歴史と赤レンガ倉庫、大和田別荘(ムゼウム)と港周辺がそろってきた。敦賀の第3次か、第4次総合計画を見直すと港周辺の開発の絵が描かれている。港を見渡すランドタワーもあるが、この頃の企画がようやく身を結び始めた。休止するJR貨物の敦賀港線が今後、どうなるのかさだかではないが、ランプ小屋や線路とあわせ、明治の繁栄した敦賀港の歴史がそろう。

港一帯の賑わいつくりと大上段に構えるよりも、じっくりと時間をかけて整備するとおのずと、人が集まる場所になる。それだけの材料は十分に備えているからだ。あせる必要はない。

「人道の港 敦賀ムゼウム」でボランティアガイドしていると、先日、神戸の方が、リピーターとして、家族を連れてきていた。小さな展示館で、写真とビデオと、文書だけのものだが、何か心に残るものを感じて、再び訪れてくれるのだろう。施設も大事だが、そこにある歴史も大事だ。

話を飛ばすが、杉原千畝の生年月日は、明治33年(1900)1月1日。明治生まれの気骨ある外交官だった。今、彼と2歳しか違わない「白洲次郎」関係の本を暇にまかせて読んでいる。生まれは明治35年(1902)2月17日、終戦直後の連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)支配下で、憲法草案に深く関わり、吉田茂の側近として活躍し、貿易庁(通商産業省の前進)長官等をつとめる。独立復興後は、東北電力会長等を歴任した。夫人は、作家・随筆家の白洲正子。私の父が明治30年(1897)1月3日生まれ、そんなことも重ねているのかもしれない。歴史と人物を重ねていると実に興味深い。

余談だが、白洲次郎の最後の言葉が「右利きです。でも夜は左」、これは、入院した病院で看護師さんに「右利きですか?左利きですか?」と尋ねられて答えたもの。ちなみに「左利き」とは「酒飲み」という意味を持つらしい。大工は金づちを右に持ち、酒を飲む杯は左というのが説らしい。いずれにしてもユーモアある。こんな言葉も残している。「楽しみは花の下より鼻の下」、これは想像にまかせるが面白いユーモアだ。私には変な駄洒落よりは数段上だ。

話を戻すが、金ヶ崎緑地一帯、歴史的なものと重ねながら整備されてきた。敦賀港百年のみなと博から10年、ようやく整ってきた。次は赤レンガ倉庫、敦賀港線とゆっくりと整備することだ。金ヶ崎宮との連携は、動線は、天筒山とは、中池見とは、時間とかけた取り組みは工夫も生まれ、市民の声を聴きやすくなる。

「醸成」という言葉がある。新しい施設がなじむまでに時間がかかり、違和感からなくてはならない施設になっていく。港の賑わいは当分、先でもゆっくり時間をかけた取り組みは、歴史との結びつき、色あせることはない。そんな時間をかけた取り組みを、私は推奨したい。

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