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ちょっとすれば敦賀城跡が・・・。
Date:2009-10-22(Thr)

朝が寒くなってきた。今朝は気温12度。敦賀西小学校で11月4日から興味ある発掘調査が始まる。雨と雪が気になる季節と期間だ。

戦国時代終わり頃、信長の没後、蜂屋頼隆が五万石の敦賀領主となり、頼隆が、旧笙ノ川河口の左岸に敦賀で初めての平城を築いた。ただ位置は定かではない。頼隆が病没後、秀吉配下の大谷吉継が五万七千石で領主となり、敦賀城を敦賀平野のど真ん中に築いた。三層の天守閣をもつ城で、現在の結城町の真願寺一帯から、南側の敦賀西小学校辺りと三島町1丁目にまたがるものと推定される。

関ヶ原合戦の敗北後、敦賀城は壊された。江戸時代に入り、酒井忠勝が小浜藩主となり、敦賀の支配にあたった。そのため旧敦賀城の中心部に、藩主の宿泊休憩所となるお茶屋(陣屋)、町の支配や警察・裁判を行う奉行所、農村から年貢を取り立てる代官所を設けた。その古い地図がある。現在の西小学校付近だ。

西小学校耐震化工事が伴うので、年度いっぱい、急いで、そのエリアだけを発掘調査する。敦賀城の絵図はあるが、敗者の城だけに文献資料は皆無だ。敦賀城の遺構としては、来迎寺表門に敦賀城中門が移築されていることなど、わずかに確認できるだけだ。発掘調査の場所は、江戸時代の遺跡発掘だが、場所が場所だけに、敦賀城の関係するものが発掘されるかもしれない。400年を超えるロマンだ。

話を広げると、敦賀の金ヶ崎城には南北朝、戦国と歴史の舞台があり、国際的な関係も古くは大陸の渤海、近年のロシア、朝鮮の敦賀港がある。北前船の歴史もある。近年の東亜国際列車の鉄道ロマンもある。

小さな敦賀平野だが、雄大な歴史ロマンを感じさせるエリアでもある。歴史環境は多彩で拠点あるものの、金ヶ崎城も敦賀城も跡地だけで、渤海の松原客館も発見されていない。拠点が点在し目玉がなく、訪れる観光客も物足りなさを感じて帰っているのが現状のようだ。

話を西小学校の発掘に戻すが、発掘はあくまでも耐震工事に伴う校舎建設前の調査にすぎない。ただ、敦賀城の関係する何かが発見されれば、話は別となる。関係者にとっては楽しみな発掘でもあり、校舎建設が絡むだけに難しい判断が必要になるかもしれない。
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